【 御主人様のお気に召すまま-126 】



「けほんっ、けほ、けほっ・・・・・・・」

吸いこんだ煙に咽て、イワンは激しく咳き込んだ。

涙目になってしまったのを拭って、溜息をつく。


「・・・・・・間に合うだろうか」


次の任務まで、あと1週間。

喫煙出来ることが最低条件。

ターゲットが煙草を咥える口元が好きらしい。

と言っても、毎回そうだがイワンに必ず引っ掛かるわけではない。

確率が高いと言うだけで、諜報部の美女美男も一緒に潜入していることが多い。

外れれば幸い、当たれば不幸なのだが、上からの命令なのでいたしかたない。

そして、諜報部の者と違い、イワンは色々と出来ないことが多い。

化粧や女装は勿論、喫煙、賭け事。

前者二つは容姿から厳しい。

喫煙は嗜まないのでやはり厳しい。

賭け事は嘘が苦手なイワンに出来る筈がない。

酒は笊なので大丈夫だが、今回求められているのは喫煙だ。

上もまさか煙草をうまく吸えないなんて思わなかったらしい。

相当煙に弱い人間や煙草に慣れぬならともかく、イワンはいたって普通体質で、常に葉巻の煙のそばにいる。

うまく吸えないのは、吸い方が分からないから。

肺まで吸い込んでしまっているのだ。

実際、喫煙に慣れればそれでいい。

だが、初めは口先で吸って慣らすもの。

とはいえ、煙草の吸い方の説明書なんて基本的には存在しないわけで。

知らぬイワンは、途方に暮れて、しょぼくれる。

実は、残月に講義はお願いしたのだ。

彼は快く引き受け、そして有難い事に最初に報酬を要求してくれた。

ハンカチプリーズ。

即、断った。

朝少し出てしまった鼻血を拭いたハンカチを要求されたのだ。

何故それを持ったまま行ってしまったのか、そして何故嗅ぎつけられたのか。

全ては考えたくもない事でしかない。

仕方なく撤退し、考える。

セルバンテスも吸わなくはない。

水煙草やスナッフなどやっている。

だが、どちらもちょっと違うと思う。

水煙草はパイプに属し、スナッフは嗅ぎ煙草。

癖があるし、矢張り変わった種類の煙草だ。

煙管もあれだったが、他に心当たりはない。

少し、考えて。

持ったままで灰が落ちそうになっていたシガレットを、灰皿に押し付けた。





「・・・・・・・?」

訪ねてきた恋人が酷くおとなしい。

元々おとなしいが、何か言いたい事があるようだ。

顔を合わせるのを少し嫌がるし、キスしたくてもさせてくれそうにない。

そして、鼻孔を擽る煙の臭い。

ものが焼けるのでなく、明らかに煙草だ。

別に吸ったところで構わない。

それは個人の自由だし、煙の匂いを纏った恋人もそれはそれでなかなかいい。

だが、余り吸うところが想像できない。

人に点けるなら兎も角、自分ではライターすらまともに扱えなそうだ。

咥えてつけても、火がつかない。

火をつけたら、煙草が落ちる。

そんなことは流石に無いと思いつつ、勝手に想像して微笑ましくなってしまう。

イワンの耳元を軽く擽ると、大ぶりな目がおずおず見上げてきた。


「あ、あの、お時間があって、気が向かれればでいいのですが・・・・・」


煙草の吸い方を、教えていただけませんでしょうか。

勝手に想像していたとはいえ、本当に言われて目を瞬かせた。

煙草の吸い方。

火をつけて、吸いこむ。

それ以外に何かあるのだろうか。

詳しく聞いてみれば、任務で必要とのこと。

試しに一本吸ってみろと命じる。

イワンはシガレットケースを取りだして一本取り出した。

シガレットケースは、なぜか可愛いハニーゴールドのミニトランク型。

大方ローザに押し付けられたのだろう。

ジッポは、赤い薔薇の描かれたスゥィートピンクのメタル。

どちらも弟子の好みとしか言いようがない。

だが、妙に可愛い。

年こそ若すぎるが、成人した娘のおさがりをもらって、娘が喫煙することに複雑になっている父と言うか。

笑いを堪えて見ていると、火はうまくつけた。

左手の人差し指と中指で挟んで口にあてたまま、片手で蓋を開けて点火。

軽く吸いながら点火し、そこでぴたっと息がとまり。


「げほっ・・・・げほ、けほっ・・・・・・」

「・・・・・・・」


理由が分かった。

初めから深く吸うからだ。

おそらく従者は葉巻の匂いに慣れ親しんでいるから嫌悪感が少ないのだ。

そして、深く吸いこんでしまう。

鼻は慣れていても、肺は慣れていないのだ。

副流煙と直接の喫煙は違う。

考え、火を消させる。

激しくむせる背を軽くたたいてやり、水を取りに行く。

テーブルの上の水差しからグラスに汲んで、渡してやる。

相当苦しいのか、素直に受け取って一度頭を下げ、飲む。

再度背をあやしてやるが、暫く咳が止まらなかった。

落ち着いたところで、自分の葉巻を取りだし咥える。

イワンが反射的に火をつけるのを目を細めて見やり、一度吸い込んだ。


「火をつけた直後は、軽めがいい」

「あ・・・・・・は、はい」

「火種が落ち着いたら、深く。勢い良く吸うものではない」


言いつつ見せてやる。

イワンはじっと見つめていた。

素直な姿勢が好ましい。

そして、自分を頼った事が嬉しかった。

甘えというにはささやかだ、ささやかだが、甘えだ。

紫煙を吐き、方向を返してイワンの口元に吸い口を差し出す。


「咥えろ。まだ吸うな」

「・・・・・・・・・」


そっと咥えた口元が愛らしい。

淡い唇が少し開いて、僅かに歪んで。

ピンクに濡れた口内との境目。


「肺に入れず、口に煙を含め」

「・・・・・・ん・・・・・・」


少しだけ目を細め、イワンは小さく鼻を鳴らした。

火種が赤くなり、吸いこんでいるのが分かる。


「離す時は閉じてもそうでなくとも構わん。任務がそれなら閉じるべきだ。女で口を開けたまま吐くのは品がない」

「ん・・・・・・」


そっと口を離し、ほんの少し唇を尖らせ。

ふ、と紫煙を吐く。

それが酷く色っぽくて、ぞくりとした。

第一、咥えさせているのも葉巻だ。

葉巻が女性に敬遠されるのは、男性器に似通っていると揶揄されるからで。

愛らしい口元が、自分の吸った葉巻で喫煙する。

なんとも心がさざめく。

でも、イワンはそんな事も知らないで、きょとんとアルベルトを見上げていた。

主の目が、少し怖い。

怒っているのではないと知っている。

どちらかと言うと、少しその気のようで。

でも、それが少し不安だった。

何故かは分からぬが、漠然と。

捧げるべきか迷った。

でも、どうしても出来なくて。

知らぬふりをして、礼を言って。

逃げ帰って、しまった。

任務自体は成功した。

シガレットを吸っているところを気に入られ、懐に入り込んで。

情報を、掠め盗って。

あとの始末は後続隊に任せ、本部へ。

主の部屋に走って、弾む息もそのままに。

セルバンテスがいるのも構わず、縋って口づけた。

驚く主が好きで好きで堪らなかった。

何故か判らない。

もしかしたら、少し拒んだ事で亀裂が入って、我慢の氷山が割れてしまったのかもしれない。

奥方に言われた事を思い出す。

拒んでみたらいいわ。

あなたは魅力的よ。

優しい声が耳から離れない。

あなたが許してくれるなら、私は一生かけて償います。

貴方と御子女に心配をかけぬように、恨まれぬように。

愛して愛して、捧げて。

この方から、愛を受けることを、受け入れます。

縋ってしがみつく恋人に、アルベルトは茫然としていた。

抱き返す事も忘れて硬直したままでいると、盟友に蹴られた。

それは、しっかりしろという意味と、いい加減イワン君手放して、という催促で。

煩い黙れ、貴様になんかくれてやらん、と蹴り返し。

恋人を、しっかり抱きしめた。





***後書***

こんな話書いたけど、きっとまた一進一退する予感。ぶっちゃけ喫煙するイワンさんの口元を妄想したかった。