【 御主人様のお気に召すまま-163 】


大変な事になってしまった。

主に誤って拳骨を貰ったのは記憶に新しいが、今度は主が落下物で頭を打ってしまった。

残月の途方もない蔵書量の書庫の中で迷子になったサニーを捜索していた十傑が、書物の雪崩に巻き込まれ、遭難。

二次災害だがそいつらは放っておいても大丈夫と放置していたら、手だけ出ていたレッドが適当に辞書を投げてしまった。

狙ってなら気配がするが、全くの偶然。

避けようとした時には遅く、アルベルトの脳天に命中。

そこにあった書物用カートでイワンが気絶している主を運んだが、一向に目を覚まさなかった。

そして翌朝、イワンは主の様子がおかしいと気づいたのだ。

どこかぼんやりしているし、一言もしゃべらない。

機嫌が悪いならまだしも、不安になるくらいぼんやりと。

恐る恐る話しかけたが、反応は無し。

何だか子供のような感じがして、可愛い気もする。

が、伸びてきた手に鼻をぎゅうと掴まれ、慌てる。


「あ、あるべるとさまっ?」

「うー・・・・・・・・・・・・」


うー?

うーって何だ。

反対の手の爪を噛み始めるのを見て、背中に冷や汗が落ちる。

もし、もし万一赤子まで記憶が退行しているとしたら。

主が誕生と言うか発生した時に何歳の姿だったかは知る由もないが、その能力が暴走したら危険だ。

鼻を掴む握力は半端でないが、我慢して宥めにかかる。


「アルベルト様、良い子ですから、手をお放しください。イワンが遊んで差し上げますから、ね?」


口調がいつもと違うのは、やはり子供相手にあの口調では駄目じゃないかと思ったからだ。

少し子供口調を混ぜつつ話しかけ、5分かかって鼻を解放してもらえるよう交渉する。

アルベルトは指を吸うのではなく爪を噛んでいるが、不満げだ。

が、唐突にイワンの鼻から手を離し、立ちあがる。

くしゃみが出そうになっているイワンの足をわざわざ掴み、アルベルトは歩き出した。

ドアを簡単に粉砕し、半分逆さまのイワンを引きずって。

ただならぬ気配の十傑集に話しかける者などおらず、きっとイワンはもう駄目だと内心手を合わせる者多数。

しかし、そこで救いの手が差し伸べられた。

サニーに会いに行こうとスキップで通りかかったのは、盟友セルバンテス。

彼は盟友に話しかけ、イワンの話を聞き、現状を直ぐに把握した。

そして上手くアルベルトを誘導し、サロンに。

イワンの脚はどうしても離さなかったが、全速力で走られたりしなかったから、頭を打ったりはしなかった。

サロンについて暫くは十傑も笑っていたが、次第に黙った。

頑固に離さない足首から、不穏な音がしている。

途方もない握力で足首が粉砕されるのに、30分もかからなかった。


「イワンっ!」

「・・・・・・・大丈夫です」


歯を食いしばって冷や汗を垂らしながら、イワンは微笑んだままだった。

ぶらぶらになった足首を不思議そうに眺めているアルベルトに、やんわり願い出る。


「そこは壊れてしまいましたから、放して頂けませんか?」

「・・・・・・・・・・・・?」


擬音を強いてつけるなら、きょとんだろうか。

自分の力を理解しない赤子は、みるみる内出血で腫れ始めたそこをぎゅうぎゅう掴んでいる。

イワンの歯の根が合わなくなっているのが、聞こえる。


「アルベルト、放してあげないとイワン君が・・・・・」

「セルバンテス様」

「・・・・・・・・っ」


ぞっとするほど恐ろしい声で制止され、セルバンテスは思わず黙った。

息をのむ十傑に、イワンがやんわり微笑む。


「赤子にそんな事は分かりません。万一分かるなら、まだその罪を背負わせるのは早すぎます」


アルベルト様、お放しください。

もう一度願っても、何も変わらない。

だがイワンは辛抱強く繰り返し、激痛に泣きもせずに微笑んでいた。


「アルベルト様、では、手になさいませんか?」

「イワン君・・・・・」


セルバンテスが眉をひそめるが、イワンは手を差し出した。

アルベルトが手を離したら床に座り、手首を掴む大きな手をそっと撫でる。


「暖かいですね」

「・・・・・・・・・・?」

「貴方様の手が、とても好きです」


不思議そうなアルベルトに優しく話しかける姿は、まるで母親だ。

もう足首は変色しているし、直ぐに発熱も始まるだろう。

だが苦痛をおくびにも出さず、ただひたすら慈しむ。

彼が止めたのはただ、見るに見かねたセルバンテスに叱られた時に攻撃しようとした事と、爪を噛む事。

自分への一切はひたすら受け入れる。

それは我儘放題を許すのでなく、赤子が暴れ出さぬように。

癇癪を起して暴れれば、不利になるのはアルベルトだ。

宥めて願って、やんわり諭す。

アルベルトは今掴んだ指を口に入れてがりがり噛んでいるが、イワンは黙って堪えている。

血の味が濃くなって口から出す頃には、もうぼろぼろになっていた。

目を重そうに瞬かせる主に気付いて、微笑む。


「眠たくなりましたか?」

「・・・・・・・・・・・・」

「では、膝枕をしますね」


掴んで放さない主に優しく言い聞かせる。

足を引きずって長ソファへと連れていき、端に腰かける。

頭を乗せてやると、アルベルトはイワンの方向を向こうと、肩を掴んだ。

寝返りを打った瞬間、嫌な音がする。

レッドに至ってはもう斬りかかる寸前だが、イワンが首を振ったから堪えていた。

砕けた肩で動かぬ左手を取られ、また口に入れられる。

がりがり噛まれても、イワンは黙って主の髪を撫でていた。


「大丈夫ですよ、此処にいますから」





目が覚めた時、血臭と冷たい殺気に飛び起きた。

その様子に、セルバンテスが疲れ切った顔で笑う。

「お帰り」

「・・・・・・・・・・驚かせるな」

「そう?じゃあ後ろを向いてみるかい?」


言われて振り返り、アルベルトは絶句した。

肩を腫れあがらせ、指は血だらけ、おまけに発熱で真っ赤な顔。

凄まじい姿の恋人は、愛らしい笑みを浮かべているがゆえに壮絶を極める。


「・・・・・・大丈夫です、医務室に行ってきます」


何があった、と聞く前に、一気に記憶がよみがえる。

何も考えぬ赤子の記憶は、ただ目の前の光景が反芻される。


「何故、抵抗せんかった!」


怒鳴ったアルベルトを、セルバンテスが宥める。

ただ、その声は酷く冷たかった。


「堪えたまえよ、そして察したまえ。彼は君を守るために頑張ってくれたんだ」

「高々B級メカニックに庇われるほど落ちぶれておらんわ!」


吼えたアルベルトに、イワンが優しく微笑む。


「存じております、私の勝手が過ぎました。どうぞ、罰をお与えください」


掠れ始めた声で、必死に意識を保っているのが分かる。

悔しくて噛んだ唇から、血の味がした。


「馬鹿者が!」


吐き捨て、従者を抱え上げる。

医務室に向かう道のりが、長過ぎる気がした。





医務室に運ばれたイワンは、すぐに治療を受けた。

手術は絶対に必要だが、通常の手術では元のようには歩けない。

医者にどうなさいますかと聞かれ、十常寺に頼むと言った。

十常寺はいつもと同じ顔でイワンの治療をしたが、矢張りどこかピリピリしていた。

身体は元のようになったが、長い苦痛と激しい痛みによる精神ダメージは大きい。

幽鬼に頼むほどは無いが、ただ休養が必要だった。

青い顔で眠っているイワンに、手を握り締める。

傍らに椅子を引っ張ってきてずっと座っているが、見れば見るほどに可哀想で仕方がない。

あんな事を言ったが、本当はただ心配で悔しいだけだ。

手を出し、躊躇したが、あの言葉を思い出してそっと手を握る。

貴方様の手が好きですと笑ってくれた顔に、嘘は見えなかったから。





暖かい感触に目を覚ましたイワンは、自分の手を握る大きな手に無意識に微笑んだ。

大好きな、大きな手だ。

アルベルト様、と掠れた声で呼ぶと、祈るように落胆するように俯いていた主が、もそりと顔を上げる。


「・・・・・・・・付いていて下さったのですね・・・・」


有難うございますと微笑む恋人に、アルベルトの眉間にしわが寄る。

だが何を言って良いかも分からず、黙って手を握る。

握り返す指は、もう綺麗で傷もない。


「・・・・・・・・貴様はそのままで良い」

「・・・・・・はい」


B級で、メカニックで良い、愚かなほどに優しくても良い、だから。

その直向きな愛をひたすらに、自分に向けろ。

暗に言われている事を賢く察知し、イワンが苦笑する。


「お慕いしています、アルベルト様」

「・・・・・・・・・ああ」


優しい口づけは、誰も見ていない涙の乾いた味がした。





***後書***

痛い話が好きですが、ハピエンじゃないとえづいてしまう子なので(泣き過ぎ)、幸せそうに締める事しか出来ません。