【 御主人様のお気に召すまま-018 】



「・・・・・・・・・」

イワンは部屋で本を読んでいた。

ローザに読めと押し付けられた恋愛小説だ。

正直、若い頃自分の恋はこんなにうまくはいかなかったし、実際こんなに甘い恋というのは中々無いのではないかと思う。

甘くて、優しくて、切ない。

でも、今恋をしていても、イワンは酷く苦しいのだ。

胸の奥にちらつく女性。


「返して」


顔も知らない。


「返して」


声も知らない。


「返して」


知っているのはその人の夫と娘。


「アルベルト様を返して!」


イワンは本を閉じた。

耳を塞ぐ。

無意味だと、知りながら。


「アルベルト様を貶めないで」

「身分が違うの、分からないかしら」

「あなたが家族を・・・・・・壊しているの」


罪悪感に苛まれ、知らない声に詰られながら目を閉じる。

早く眠ってしまえ。

そうするしか、逃げ道はないのだから・・・・・・・。





「・・・・・・・・」

イワンは本を読んでいた。

ローザに読めと押し付けられた恋愛小説だ。

ここはアルベルトの所有する別荘の一つ。

イワンも初めて来た此処は、とても静かな場所だった。

ひっそりとした森の中の屋敷は、然程大きくはない。

アルベルトはイワンに一部屋与えるとどこかに姿を消した。

出歩く気分になれなかったので、こうして本を捲っている。

内容は全く入ってはこない。

目で文字列を追っているだけだ。

だが、耳の奥に響く声に耐えられなくなり、イワンは本を閉じた。





「・・・・・綺麗な場所だな」

森の中を歩いて行く。

時折年若い雌鹿や兎が小走りに横切る、小さな道。

どこに続くのかも分からないそれは、時折端に白い輝きをちらつかせていた。


「竜胴・・・・・・」


それと、鈴蘭。

科も属も違う花だが、少し似ている。

小さい頃は大きな鈴蘭と小さな鈴蘭だと思っていたものだ。

けれど今は・・・・・・。


「アルベルト様は、竜胴に似ている・・・・・・・・」


群生もせず一つだけ花を咲かせる。

寄り添う鈴蘭はきっと。


「奥様はこんな方だったんだろうな・・・・・・・・」


白く小さな愛らしい花。

堂々とした竜胴と並ぶに相応しい。

イワンは小さく笑って歩を進めた。

暫く歩いていると、突然小さくひらけた場所に出る。

そこには・・・・・。


「あ・・・・・・」


白い、墓。

その前にたたずむ後ろ姿の女性。

栗色の髪を柔らかに揺らし、振り返る。


「あら、こんにちは」

「こ、こんにちは・・・・・・・」


とても綺麗な女性だった。

少女のような愛らしさがある。


「すみません、どなたかを悼んでいるのに、邪魔を」


イワンが謝ると、女性はきょとんとして、その後花のように笑った。


「貴方、花冠は編める?」





「貴方器用ね。暇さえあれば編んでいる私より上手いなんて」

ふふっと笑ってイワンの編んだ花冠を手に取る。

彼女は三娘というそうだ。

墓の主が誰かは知らないが、毎日ここで花冠を編んでいるのだと言った。

その愛らしい姿に、心が和む。

胸を突き刺すあの声は今、聞こえない。


「ねえ、イワンさん」

「はい」

「貴方の大切な人は、いつも貴方にそんな顔をさせているの?」


言わんとする事が掴めなかった為に軽く首を傾げると、三娘は悪戯っぽく笑った。


「凄く、辛そうな顔をしているわ」


どうしたの?

その声に、思わず右目から涙が落ちた。





「・・・・・・私のお慕いする方は、昔結婚されていたのです・・・・・・」

隣り合って座り、イワンは三娘に聞かれるままに話をした。


「その方は、私を大切にしてくださいます。御子女も・・・・・・知った上で、私に微笑んでくださいます」


けれど。


「分かってはいるのです。私がいなければあの方はきちんとした方と再婚なさるでしょう。その方が良いのです。けれど私はあの方から離れる事ができない・・・・・」

「・・・・・・・・・・・」

「身分が違うと分かっていながら・・・・・あの方の幸せを願っているなどと言いながら私は・・・・・私の我儘を通している」


俯いて儚く笑ったイワンに、三娘は思った。

この人は優しすぎる。

全て自分の所為にして想い人を庇っている。

三娘は小さく笑ってイワンの手を握った。


「本当に、愛しているのね」

「・・・・・・はい」

「私ね、夫と娘がいるの」


笑みを浮かべたまま、三娘は真っすぐ前を見つめていた。


「私は、今あの人が幸せならそれでいいわ」

「え・・・・・・・?」


まるでもう傍には居ないような言い方に、イワンは目を瞬かせた。


「これね、私のお墓」


三娘の手がイワンの手を取る。

シロツメグサの腕輪が巻き付けられた。


「幸せにね」


アルベルト様をお願い。

鈴蘭のような笑みを残して、三娘は消えた。





「・・・・・・・・・」

白い墓に近づいて、膝を折る。

その手には、彼女が誉めてくれた花冠。

そっと、墓にかける。


「・・・・・・私の命が続く限り」


あの方にお仕えします。

そう言って黙祷し、立ち上がる。

そろそろ戻ろうと踵を返したのだが・・・・・・。


「あ・・・・・・・」


入り口にたたずむ、主の姿。

アルベルトがイワンに近づく。


「ここで何をしている」

「いえ、少し出歩いて・・・・・・・」


その腕に巻き付いたシロツメグサの腕輪に目が留まる。

解けにくい独特の編み方は昔妻が教えてくれた。


『その人、大事にしてあげて』


耳を掠めた声は、間違いなく彼女のもの。

アルベルトはふっと笑うと戸惑うイワンを伴い踵を返した。


「・・・・・・・また来る」


今度は、幸せそうに笑う顔を見せてやる。

そう一人ごち、アルベルトは妻の墓を後にした。

後には、静かな光を受けて輝く白い墓がたたずむだけ・・・・・・・。





***後書***

たまには静かな話。

最近アル様暴走気味だから。

三娘さんはきっと少女のような人だったと思う。