【御主人様のお気に召すまま-037】
「痛くありませんか?」
生白く骨張った背中を丁寧に流しながら、イワンは尋ねた。
幽鬼が僅かに振り返って笑む。
「ああ、丁度良い」
ずり落ちるワイシャツの袖を上手く肘で留め、イワンはシャワーで泡を流した。
「すまないな。爪が割れるとは思わなかった」
幽鬼自慢の花咲き乱れる温室は、彼がこまめに世話をしている。
任務が長引いて伸びていた草取りに熱が入って爪を割ってしまったのだ。
「お役に立てるのは嬉しいですが、ご自愛はお忘れにならないでください」
やんわりと釘を刺すのに苦笑する。
嫌な感じは受けない。
子供の扱いが上手い彼は、大きな子供の扱いにも勿論長けている。
仕事に没頭して倒れる寸前なのに頭がMAXに固くなって休憩を拒む樊瑞に茶を飲ませる事が出来るのはイワンだけだ。
それも樊瑞が余り好まぬ、荒れた胃を保護するミルクたっぷりの甘い甘いホットショコラを。
任務明けで殺しの興奮が抜けずにいるレッドを宥め透かして眠らせる事が出来るのもイワンだけ。
膝枕で眠るレッドの髪を梳く手は優しい。
幽鬼はこの白い指が好きだった。
生白く骨張った自分のとは違う、たおやかな手。
・・・・・精神感応などという能力を持つ自分に好んで触れる者はまずいない。
触ろうが触るまいが同じなのに。
気味悪がっているのが手に取るように分かる。
小さな頃はそれに傷つき泣いてばかりいた。
カワラザキに拾われ、初めて頭を撫でられた。
幽鬼の中に残る二つの手の記憶。
ひとつはカワラザキの大きな手。
頭を撫でられるのが好きだった。
もう一つはイワンの白い指。
温室からの帰りに、肩に付いた葉を取ってくれた。
その時はまだ言葉も交わしたことはなかったが、幽鬼が主と同じ十傑衆が暮れ泥むである事は知っていたはずだ。
彼は礼を欠かずにちゃんと許可を取り幽鬼の肩に触れた。
躊躇うことなく。
驚きとともに、カワラザキとは違った好感を覚えた。
今も変わらぬ白い指を見るたび、幽鬼は胸が暖かくなる。
「あとは自分で出来る」
世話を掛けたな。
幽鬼の言葉に、イワンは微笑して首を振った。
BF団ヨーロッパ支部に出張中のカワラザキと怒鬼、任務中の十常寺、孔明に呼び出された樊瑞、それに休暇中の残月を除く十傑が集まるサロンで、レッドが不貞腐れている。
皆呆れているが、次の任務までごね始めたのに、イワンがやんわり願ってみる。
レッドはソファに座ったままイワンを睨んだ。
「・・・・・何故私ではないのだ」
「?」
「暮れ泥むの背は流したのだろう」
言わんとする事を察し、イワンは困ったように笑った。
「幽鬼様はお怪我をなされていましたから・・・・・・」
レッドの眉間に皺が寄り、刀がすらりと抜かれる。
切っ先を左手の手甲から出た親指の甲に当てる。
僅かに引くとつうと血が伝った。
「レッド様っ」
「・・・・・・怪我をした」
ぼそりと呟かれた言葉に、イワンは目を瞬かせた。
だがそれ以上は何も言わない。
「・・・・夕方にお伺いしてもよろしいですか?」
この忍が命令や無理強いでなく、駄々をこねるのが酷く疲れ切った時である事を知っているイワンは、慈しむように微笑んだ。
「・・・・五時半だ」
烏の行水だが風呂自体は嫌いでないレッドの部屋の風呂は特注の総杉だ。
清涼感ある香りが鼻腔を擽る。
「・・・・・檜は好かんのだ」
頭を洗ってもらいながら言うレッドに、イワンは口元を緩めた。
いつものレッドに戻りつつある。
「直系のは檜が好きらしいがな。あの松脂にも似た匂いがどうも気に食わん」
「レッド様にはこちらの方がお似合いです」
柔らかな声が耳に心地いい。
・・・・・自分はこのB級エージェントに執着している。
忍として育った己には欠如した感情が多々ある。
それを悲しいなどと思ったことはない。
素晴らしい身体能力、殆どの毒の効かぬ身体。
持っていても邪魔っけな感情と引き替えにして何の不都合があろう。
快楽殺人鬼の気違いと怯えられ。
取り入ろうと媚びられ。
いい加減飽き飽きしていた中に飛び込んできた男。
話したこともなかった。
サロンでこちらを気にしていると気付いた。
何故か落ち着かなくて衝動的に失せろと言いかけたら、先に向こうが喋った。
「お茶をお煎れしましょうか」と。
媚でなく、ただ聞かれた。
今も色褪せぬあの記憶。
血に酔い狂い、戻れなくなる寸前でいつも頭に響く柔らな声音。
「痛くはありませんか?」
「耳の裏が痒い」
唇の端から僅かに口に入った泡の味を感じながら、レッドは小さく口元を笑ませた。
「何となく調子に乗ってみた」
あっさり言われ、イワンは苦笑してヒィッツの肩口をスポンジで擦った。
「皆様最近お忙しいようですし、私に出来る事なら」
「そうやって面倒な仕事を増やすタイプだな」
少しは休めているか?
尋ねられ、イワンは曖昧に微笑んだ。
ヒィッツの口元に少し意地の悪い笑みが浮かぶ。
「朝まで寝かせてもらえないか?」
一瞬止まった手が可愛い。
前にも、こんな事があった気がする。
あれは確か、初めて一人のイワンとすれ違った時。
立ち止まって道をあけた彼の目の前に手を出した。
誰もが喉を引きつらせて青ざめる指。
ただ驚かせて遊ぶ時は大抵開いているが、その時はわざと組んで出した。
今直ぐにでも鳴らせる状態の指を見て、イワンは青ざめた。
悲鳴のひとつも上げるかと思ったら、白い指で手を包み込まれた。
驚かせるつもりが逆に驚かされる。
イワンは泣きそうな顔で「関節が」と言った。
・・・・任務続きで鳴らし続けた指の関節は紫に腫れていた。
心配などされたことはなかった。
攻撃だけに特化した自分は指を鳴らせなければ価値はない。
無意識の水面下で焦っていた。
必死だった。
今の立ち位置を守ろうと躍起になっていた。
イワンと別れて、有給手続きをした。
溜りに溜まった休暇。
痛む関節。
鏡に映った疲れた顔に、何だか可笑しくなってしまった。
何をそんなに怯えていたのか。
素晴らしきヒィッツカラルドともあろう者が。
「辛くなったら言え」
その時は白い指をあたためてあげるから。
「皆とお風呂なんてイワン君も中々やるねぇ」
「ご冗談を・・・・・」
くすりと笑ったイワンに背中を洗ってもらいながら、セルバンテスは鏡越しにイワンを見た。
「・・・・・イワン君はさ、私達の事好きかい?」
十傑の事を差すのだと察し、イワンは屈託なく微笑んだ。
「はい。皆様素晴らしい方ですから」
素晴らしい、は能力を指さない。
好き、は媚や愛想ではない。
「・・・・・・・・・私もイワン君が大好きだよ」
人外魔境の十傑衆を好きだと言えるのは君とサニーちゃんくらいなんだよ?
あの気難しく気分屋なアルベルトが拾ってきた男。
綺麗でもないし、強くもない。
自分は直ぐに興味を無くした。
どうせ直ぐやめる。
若しくは盟友が飽きる。
だが、一月経ってもアルベルトはそれを手放さなかった。
いつも一生懸命で礼儀正しく、実直。
初めて見た花のような笑みははっとする程可憐だった。
「・・・・・もし、さ」
君を拾ったのが私だったら。
「君は私を愛してくれたのかなぁ」
イワンを見上げて僅かに笑み、問う。
沈黙が落ちた。
ぴちょんと結露が落ちる。
イワンはやんわり首を振った。
「ピアノと一緒に焼け落ちるか、アルベルト様にお仕えするかしか、私の道はないのです」
幸せそうに言うイワンに、セルバンテスは目を閉じて笑った。
「そんな君が大好きだよ」
目を閉じていないと、この優しい人を幻惑で自分に縛り付けてしまいそうだった。
「・・・・・・・・・・」
胸に寄り掛からせたイワンの腕に手を這わせる。
ぴちゃんと湯が跳ねた。
恥ずかしがり遠慮するのを浴室に引き込んだアルベルトは、白い背中を指先でなぞった。
浴室にはむせるような甘い薔薇の香りが立ちこめている。
浴槽の中には大量の赤い花弁が揺れていた。
一枚つまみ、指先で裂く。
甘い香りが強く薫った。
湯を弾く瑞々しい肌に花弁を置いて戯れる。
「・・・・・・イワン」
「はい・・・・・?」
振り返る無垢な瞳に赤い視線が絡む。
何も言わないままに抱き締められ、イワンは困ったように微笑んだ。
「・・・・・・?」
今更性格を直そうとは思わないが、たまに従者が不憫になる。
気分次第に怒鳴られ無視され、それでも直向きについてくる。
いつか、いつか。
もう疲れた、と。
付き合えない、と。
見限られてしまいそうで恐ろしい。
否、それ自体ではない。
それに逆上してしまうのが分かっている。
その鼓動を永遠に止めてしまうのが怖いのだ。
アルベルトはイワンの首筋に口づけた。
官能を喚び覚ますものではない。
ただ甘く柔らかに、到底口に出来ぬ想いを込めて。
「・・・・・・・・・」
愛しているとすら素直に言えない。
イワンがそっとアルベルトの腕を抱き締める。
彼は目を伏せて微笑み、言った。
「・・・・・・いいのです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・?」
「頬を撫でて欲しければ幽鬼様にお仕えします。快楽が欲しいのならレッド様だって良いのです。
言葉が欲しいのならヒィッツカラルド様にお仕えすればいいでしょう。定期的に休みが欲しければセルバンテス様のもとに行けばいい」
何かが欲しいのではないのです。
「御気分次第に振る舞ってください。好きに扱ってください。何も仰らずとも、休みがなくてもいいのです」
ただ。
「分を弁えぬとお叱りを受けるかも知れませんが・・・・・・」
私は少しでも貴方様に何か与えたいのです。
頬を染め、抑えの利かぬ甘い我儘に困ったように微笑む従者。
アルベルトはイワンの身体を抱き寄せた。
もしも「疲れた」と言われたなら。
それから解放してやろう。
自分の手で、殺して。
「イワン」
殺して、愛してやろう。
血に濡れた身体を掻き抱こう。
冷たい身体に舌を這わせ、手で指で愛撫して。
硬直の始まった身体を開かせ、腐食の気配のする内腑を犯し。
顔を背けられる不安に面と向かって言えぬその言葉を。
愛していると。
何度も、何度でも、狂ったように。
「愛している」と告げて。
そして。
後を、追ってやろう・・・・・・・・・。
白い耳を唇で辿りながら、アルベルトは自嘲するように笑った。
そんな愛し方しかできない自分を。
狂愛に囚われた愚かしい男を・・・・・。
***後書***
お風呂ネタでまさかのシリアス(こんな予定じゃなかった)
衝撃のお風呂が何気に気障過ぎてドン引き。
イワンさん最強説浮上。