【 御主人様のお気に召すまま-097 】
イワンの部屋には幾つかトラップがある。
十傑によるちょっかいは到底防げないが、A級程度なら退散させる事が出来る筈だ。
そこに容易く入り込んでトラップを避けつつ進む男。
気配を消したまま、目当てを探す。
いつも過剰なスキンシップは仕掛けている。
でも、本気で行動できるのは変な方向に傾いた盗撮くらいで。
でないと、彼の幸せを粉々に砕いてしまうから。
砕けたっていい。
だが、そうなれば彼はきっと壊れてしまう。
綿密に丁寧に、下地を整えないと。
落ちてきた彼を受け止めるのに失敗したら、二度目は無いのだから。
ほんの僅かに気配を匂わせた。
息をのんだのが分かる。
人工的なやや弱い光を零すクロゼットの隙間に指を引っ掛けて、開けた。
いい動きで額に突きつけられた、硬い感触。
両手を上げ、押しつけられた銃越しにイワンを見る。
いつも通り優しく、少しふざけたように、笑って。
「イワン君がくれるなら、弾丸でも嬉しいよ」
その言葉に我に返ったのか、顔を真っ青にして銃を取り落としたイワン。
落下するそれを難なくキャッチし、膝を着こうとするイワンを引きとめた。
「いいんだよ。今回は私が全面的に悪いんだから」
そんな事、しないで。
お願いだよ、と首をかしげて見せると、イワンは戸惑う様な、困った顔をして頷いた。
きちんとした彼は、きっと納得がいかないのだろう。
ね?と微笑むと、やっと僅かに笑ってくれた。
思わず笑みが零れる。
演技でない自然な笑みなんて、若い頃は一生無縁だと思っていたのに。
今は、こんなにも自然に笑っている。
画面越しでない想い人の、あたたかで柔らかい手を握った。
愛しさが溢れて止まらない。
胸を噴き零れて行く愛は隠す気もない。
今、胸に忍ばせているのは。
「デート、って言ったら、やっぱり映画かなぁって」
上着の内ポケットから取り出したチケットに、イワンは目を瞬かせた。
「今日、お休みでしょ?」
「えっ、は、はい。そうですが・・・・・」
「じゃあ、一緒に行ってくれないかな」
強請る様に問い、最終的に彼に選択権を与え。
しかし、私は知っている。
優しい彼が、寂しさを滲ませた私の目に逆らえない事を。
「駄目かな?」
「あ・・・・い、いえ」
お供させて頂きます。
曖昧に微笑んでくれるのでも良いんだ。
一緒にいるうちに、本当に笑えるようになってくれれば。
「もうすぐ時間だし、このままでいいよ」
薄黄色のパーカーとジーンズを着替えようとするのを止めた。
着替えも見たいけれど、デートの時間が1分でも短くなるのは嫌だった。
「しかし・・・・・」
「・・・・・・・」
黙ったまま、首を傾げて見せる。
彼は戸惑いながらも了承してくれた。
嬉しくなって、持ったままの銃を投げ捨てる。
安全装置を解除していたから暴発したが、当たらない方向に投げたから問題は無い。
「行こうか、御姫様」
白い手を取って甲に口づける。
「銃なんかなくったって、私の心臓は君に撃ち抜かれっぱなしだよ」
流し眼でウインクしてみせると、耳まで赤くしてしまう、純な人。
38歳の私も捨てたものじゃない。
もじもじ恥じらう頬を擽って、クロゼットから引っ張り出す。
ああ、やっぱり可愛いよ。
手を引いたまま、部屋から攫う。
邪魔が入らないうちに。
『ああああああ!!!』
『きゃぁぁぁぁぁ!』
『助けてっ!』
セルバンテスがチョイスしたのは復刻のように流行っているゾンビ映画。
ホラーでないそれは、どちらかと言うとパニック系だ。
話題なのもある、他に面白そうなのがなかったのもある。
でも、大音響の度にびくっと背筋を伸ばしているのが可愛かった。
無意識にセルバンテスの手を握っている。
恋人の様だと錯覚する。
そうじゃないと知っている。
でも、今は少し楽しませて。
この辛い恋に少しばかり疲れた私に。
甘い水を、少しだけくれないだろうか。
切なく笑って、セルバンテスはその白い手を握り返した。
映画が終わったら、昼食。
普段の感覚で店を選ぶと彼が萎縮してしまうと分かっていたから、敢えてモールの飲食店が良いと言った。
第一、それの方がデートっぽい。
贅を尽くして懐柔できる女とは違うのだ。
どんな贈物をしても、豪勢な食事に誘っても。
彼が靡く事は無い。
彼を振り向かせるものは常に人の『心』だ。
だから、素直に。
やや不本意だが、軽いノリで。
ティーンの様なデートを。
「何かご希望はありますか?」
「うーん、今は甘いのが飲みたいなって言う程度なんだよねぇ。食事はイワン君が好きなもので良いよ」
そう言うセルバンテスの顔は笑顔だ。
話をするだけで浮き立つ心。
ティーンの様な、なんて我慢している様な事を言っても、いつの間にか楽しくて仕方が無くなっているのだ。
「では、御言葉に甘えて」
ドリアがいいのですが、と可愛く首を傾げられた。
頷くセルバンテス。
入った店は、年中ハロウィン仕様の装飾なのが売りの店だ。
勿論、カボチャ料理とお菓子類が人気。
「へぇ、こんなのあるんだ」
「ええ。それは分からないですが、こちらは美味しかったですよ」
メニューのカボチャのサラダを眺めていると、イワンが隣の緑のサラダを指差した。
緑と言っても割と自然な色だが、まるでポテトサラダだ。
「これ何?メニューには『ドライアドサラダ』って書かれててイマイチ分からないんだけど・・・・」
「私もそう思って頼んでみたのですが」
枝豆でした。
枝豆ぇ?と言う目で見やると、イワンが苦笑する。
「甘くはありませんでしたが、前にレッド様から頂いた『ずんだ餅』の餡子のようでした」
「ふーん、面白そう」
じゃあ、これとラザニアを頼もうかな。あと、タピオカミルク。
そう言うと、イワンはベルを押してしまった。
来た店員に頼むのは、自分が言った3品と、パンプキンドリア。
待つ事が嫌いなセルバンテスだが、イワンと話をしている間全く苛々しなかった。
むしろ『もう出来たの?』と言うくらい時間が短く感じた。
熱々のラザニアをフォークでつつく。
カリカリのチーズが美味しそうだ。
イワンに目を向けると、行儀よく手を合わせてからスプーンを取っていた。
熱々のチーズのとろりとした部分から掬い、冷ます。
可愛く尖った唇に吸いつきたいと思いながら、大人しく自分のラザニアを食べた。
でも、もともと好奇心の旺盛なセルバンテス。
イワンの料理も気になる。
注文しちゃおうかなぁ、なんて考えていると、イワンが気付いて顔を上げた。
くすくすと笑う姿に目を瞬かせると、まだ掬っていない綺麗な部分を向けて皿を押してくれる。
「味見なさいますか?」
最初に差し上げればよかったですねと朗らかに笑うのが嬉しい。
「じゃあ、ひと口頂戴」
口を開けてみせると、イワンは目をぱちくりさせてから、笑った。
自然な笑みで、自然な動作で、適度に冷ましたドリアを口に入れてくれる。
「あ、美味しい」
「よかったです」
笑いあって、今度はセルバンテスがラザニアを差し出す。
イワンは戸惑った後に眦を染め、笑ってくれた。
薄く開いた口にそっと押し込んでみる。
「美味しいです」
愛らしい唇に目が惹きつけられる。
それはよかった、と笑って目を離した。
食事が済むと、今度は買物。
紅茶の茶葉専門店に入る。
人当たりいいが弁えて放っておいてくれる店主を嬉しく思いながら、茶葉を見て回る。
「色々あるんだね。こんなに種類があるなんて知らなかったな」
「ええ・・・・あ、あった」
飴色の綺麗な輝きを持った小さな缶。
少し寂しさを滲ませて苦笑する。
「アルベルトの好きなやつ?」
「えっ」
イワンは顔を上げて不思議そうに首を振った。
「セルバンテス様が好まれるのが、これです」
息が止まる。
泣きそうになる。
嬉しくて叫び出したくなる。
分かっている、私だけじゃない。
十傑の誰についてだって彼はよく知っている。
でも、でも。
やっぱり嬉しいんだ。
震える手をそっと背後に隠して、笑って見せる。
上手く笑えている自信さえ今は無いけれど。
笑ってくれる君を抱き寄せる勇気も無いけれど。
愛して、いるよ。
夕飯に誘った。
デザートはもちろん君だからね。
なんて言うと、彼は恥ずかしがって俯いてしまった。
でも、今日は絶対に何もしないと、そう言う雰囲気だとお互いに分かっていたから。
穏やかな食事を取った。
シチュー専門店の閉店時間まで、延々話して。
明日も早い彼をもっと拘束したいのを堪えて、部屋に送った。
角を曲がったら部屋に面した通路と言うところで、唇を奪う。
甘い口づけは、舌を絡めない。
唇を上下別々に甘く吸って、離れる。
「また、ね」
逃げるように角を曲がって、扉の前で不機嫌な主が立っているのを見つけたイワン。
振り返ると、そこに男の姿は、無かった。
『また、ね』
耳に残るあの甘い声。
また、何なのか。
明日ね、と言う事?
それとも、また。
デートの、お誘い?
舌に残る主と違う感触がどうしても嫌悪出来ず、イワンは俯き頬を染めた。
主に見咎められて、過剰な性折檻を受けるまで、あと20分。
***後書***
最後の一文で全て台無しだと思う。